この世は夢の如くに候・・・

観応二年正月十五日。 京にて足利尊氏・義詮、入洛してきた桃井直常と合戦になる。

というわけで、日記風のものが出来ました。
取り敢えず、しばらくはNHK大河ドラマ北条時宗」の突っ込みや感想を
中心にやっていこうかなぁ、と思います。

北条時宗突っ込み第2回】
足利泰氏の出家について
ドラマの中では泰氏は、「鎌倉」で、北条実時らの諫言(おどし・・・?)
により、時頼に「出家する旨を知らせた」上で、
「直後」に出家したようですが、吾妻鏡では、

吾妻鏡
 建長2年12月2日条
宮内少輔泰氏朝臣、所領下総国埴生庄において、ひそかに出家(年三十六)を遂げらる。
すなはち年来の素懐を遂ぐと云々。ひとへに山林斗藪の志を挟めると云々。
これ左馬頭入道正義が嫡男なり。

 建長2年12月7日条
宮内少輔泰氏、みづから出家の過を申す。
これによって所領下総国埴生庄はこれを召し放さる。陸奥掃部助実時これを賜はる。
これ不諧の上、小侍別当は労危きによってなり。
当庄は泰氏朝臣始めて拝領の地、始めて入部の刻、この處においては素懐を遂ぐ。
不思議とはいはざらんや。しかるに泰氏朝臣は、おのおの相州(時頼)の縁者たり。
その上、父左馬頭入道は関東の宿老たるをもって、しきりに子細を嘆き申すといへども、
人によって法を枉ぐべからざるの由、御沙汰に及ぶと云々。

まず泰氏が1251年12月5日に、「下総国埴生庄」にて「ひそかに出家」し、
「5日後」になって「出家を幕府に届け出」、
幕府は固く禁じている無届けの出家(=自由出家)であったので、
埴生庄を没収し、北条実時に与えたのです。
ところで、父であり関東の宿老であった足利義氏は、幕府に嘆願したけれども、
幾ら義氏の嫡男であり大豪族足利氏の棟梁といえども、法律は曲げることが出来ない、と結局この事件は泰氏の引退によって決着したわけです。

ドラマと吾妻鏡では、
1:前後関係が逆になっている。
2:出家した場所が違う。
3:幕府に無届けの出家のはずが、幕府が納得した上での出家になっていた。

泰氏の名はこれ以降吾妻鏡に出てきませんが、
義氏は翌年の1月3日には将軍に椀飯を献上しており、幕府内での地位は変わっていないのです。
もっとも、義氏の没後は徐々にその地位は後退していったようではありますが・・・。

続きはまた明日(笑)。



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