風邪で体調が悪い・・・

観応2年(1351)1月17日
足利直義軍の尊氏・義詮、京都西山善峰寺から峠を越えて丹波に没落。

今日は風邪でダウンしてしまってるので、
以前の掲示板の書き込みをこっちに移します。

時宗第1回】
1.足利頼氏(利氏)母(足利泰氏室、北条時氏娘)は、北条時頼、経時の「姉」ではありません。
これについては臼井信義氏の論文「尊氏の父祖」や
近代足利市史に詳しく考察してあり、
このサイトでも、頼氏の考察で詳しく取り上げたいと思いますが、
吾妻鏡の宝治元年3月2日条に泰氏室の死亡記事が記載されており、
「是左親衛御妹公也」(左親衛は時頼の事)と、はっきり書かれているのです。
14歳で頼氏を生んだことになるなど、若干疑問点もあり
(勿論、この時期には12歳程度での結婚は不自然ではありません)、
誤記の可能性もありますが、他に年齢を推定する史料がない以上、
勝手に定説をねじ曲げるのは如何かと思います。
恐らく、頼氏の年齢のつじつま合わせではないかと思いますが、
これに関しても、吾妻鏡における初見記事が、元服直後であると考えるならば、
むしろ定説の仁治元年(1240)生と考えるのが妥当だと思います。
高師氏の場合でもそうですが、何のために時代考証者がいるのか疑問です
しかも、足利氏関係の書物を著してる人なのに
(もっとも足利、新田に関する氏の説はメチャメチャですが)。

2。毛利季光について。
毛利季光は、宝治合戦の時期には出家して、
毛利蔵人大夫入道西阿」と名乗っていたにも関わらず、
とても僧形には見えませんでした。

3.頼朝法華堂の画像について。
頼朝の法華堂(墓所)に画像があったというのは、
吾妻鏡にも三浦光村の流血が「奉穢御影」とあるので、事実だと思われますが、
幾ら何でも神護寺の伝頼朝像を使うのは安直だったと思います。
そもそも、この神護寺の伝頼朝像は、よく知られるように、
足利直義」説が最近では濃いにも関わらず、です。

4.宝治合戦があっさりと終わってしまったこと。
なんか、重要なシーンがバッサリと削られていたような気がします。
安達景盛は登場しないし、頼朝法華堂での三浦泰村、光村のエピソードなど。
法華堂での逸話は三浦光村が顔の皮を剥いだ、
というのがカットされるのは仕方ないにせよ、
三浦側の視点による部分がなかったのは、余りに非道くないでしょうか。