2003-01-01から1ヶ月間の記事一覧

足利義氏

寛喜3年(1231)1月30日 足利義氏、左馬頭に叙任される。 鎌倉時代の足利氏の中でも、特に重要な位置を占める足利義氏ですが、この日、義氏は左馬頭に任じられました。 義氏は天福2年(1234)には従五位上であったので、この時点では官位はそれ…

足利樺崎寺発掘調査現地説明会

文和4年(1355) 正月19日 足利尊氏、武佐寺行宮に参候し、後光厳天皇に進発の旨を報告する。さて、18日は足利の樺崎寺発掘調査現地説明会に、19日は金沢文庫で行われている「称名寺の石塔ー中世律宗と石塔ー」展に行ってまいりました。樺崎寺で…

足利家氏の晩年

(年代不明)1月18日 足利尾張入道家氏蓮阿没以前にもこの記事は書きましたが、吾妻鏡の記述が終わる文永3年以降、家氏の去就は余り知られていません。 吾妻鏡では終盤は「足利大夫判官」として、五位で検非違使であることが分かるのですが、群書類従に…

大御堂棟札写

天福元年(1234)正月16日 足利義氏、鑁阿寺大御堂の上棟にあたり、棟木に棟札を打ちつける。この棟札は義氏が鑁阿寺の大御堂建立の際打ち付けられたものを、弘安9年(1286)の落雷による火災で大御堂が炎上した後に取り出され、正応4年(129…

樺崎寺発掘現場説明会と・・・

掲示板で毒を書いてしまったので、こちらに移します。樺崎寺で検索していた所、以下のリンクのような場所を見つけました。 http://www.page.sannet.ne.jp/zentake/page5.htm (以下抜粋) >足利源氏2代目 義兼公建立の法界寺(現在はなく、この地には樺崎…

新田義重

1202(建仁2年)1月14日 新田義重没。新田義重って結構長生きしたんですよねぇ。 八幡太郎義家の孫なのに、源頼朝没後まで生きてたんですから。 因みに頼朝は義家から数えて5代目ですね。義家−義親−為義−義朝−頼朝対して義重は、義家−義国−義重血統…