足利家氏の晩年

(年代不明)1月18日 足利尾張道家氏蓮阿没

以前にもこの記事は書きましたが、吾妻鏡の記述が終わる文永3年以降、家氏の去就は余り知られていません。
吾妻鏡では終盤は「足利大夫判官」として、五位で検非違使であることが分かるのですが、群書類従に収録されている「検非違使補任」によれば、家氏は検非違使左衛門大尉と記され、検非違使の中でも佐に次ぐ地位であった様です。
同書によれば、文永2年(1265)4月25日には名国司として尾張守に転じ、真言宗血脈類集記によれば、文永6年(1269)11月14日には出家して蓮阿と名乗っていたようです。
丁度、この出家の時期は足利氏棟梁の家時の活動開始時期にあたり(家時は文永6年4月に鑁阿寺寺規を定めており、家時は活動開始にあたり、まず氏寺である鑁阿寺に置文した、という解釈も出来そうです。その場合文永3年の文書はどうなるのか、という問題も出ますが、これはまた何れ)、家時の代行であったと考えられる家氏ですから、家氏出家と家時の活動開始は無縁ではなかったのでしょう。
この後、家氏は真言権僧正定清(後藤基清子)から伝法灌頂を受け、某年の1月18日に没した、ということなのでしょう