宝篋印塔巡りその3

廿一日 甲戌 晴陰。

明王院を後にして、安養寺交差点から国道354号を西に向かうと、すぐに世良田に着きます。
その前に腹ごしらえでラ−メン屋に入ったのですが、注文した味噌ねぎラーメン(大盛)の量の多さにビックリ(笑)。
以前行ったことのある場所だったのですが、その時も同じ感想を持った記憶が…(笑)。すっかり忘れてました。
鈴木小太郎さんに「食い過ぎですよ」と言われましたが、確かにその通り…。普通盛りにしておくべきでした。

そして、13時ちょっと過ぎに世良田長楽寺に到着。東毛歴史資料館の南にある駐車場に車を置きます。
しかし、この頃から空が陰って肌寒くなってきました。寒さに震えながら、長楽寺の石塔を見る前に、まずは東毛歴史資料館へ。
常設展はさほど展示換えもありませんでしたが、板碑を見て猫ひぢりさんが一言、
「確かにこれはハマる人はハマるわ」
うんうん。そうでしょ(笑)。
しかし、特別展示室は、ちょっと驚きました。
普段展示されてる木造天海像以外に木造伝徳川義季夫人像、木造伝円義僧正坐像で、近年の研究によれば、前者は円爾弁円ではないかと目され、後者は胎内の銘から天海寿像(没年の前年)であることが判明したと言います。
また、興味深いところでは絹本着色無準師範像、長楽寺10世牧翁了一の築いた長楽寺5世で後に東福寺8世となった法照禅師月船珍海(『延宝伝灯録』などでは「王」に「深」のさんずいを除いた漢字だが、表記出来ないので、大日本仏教全書第70巻所収『扶桑禅林僧宝伝』の表記に従った)の塔頭普光庵から出土した月船の骨蔵器の灰釉三耳壷や月船弟子の骨蔵器の展示でしょうか。

展示室から出てカウンターで図録や書籍を見ていると、石浦が『尾島町の仏像−尾島町仏像・神像調査報告書−』にの長楽寺の項に金銅製宝篋印塔が掲載されているのを発見。
これは全高9.0センチ、幅3.8センチと小型で、相輪まで完存しております。中には舎利と薬師如来地蔵菩薩毘沙門天愛染明王の木造立像が納入されており、これは2センチ強の非常に小さいで、鎌倉後期ものだそうです。
これは本当に驚きました。
猫ひぢりさんも早速これを購入。
資料館見学後は真言院跡から先述の普光庵跡を見学。普光庵には石塔の残欠も散見され、この中には宝塔の笠と思しきものもありました。

世良田東照宮の前を素通りして(笑)、お目当ての文殊山の伝徳川義季廟所へ。
ここには写真のように、鎌倉中期〜室町期の宝塔・宝篋印塔・層塔・板碑が現存しています。特に宝塔と宝篋印塔が数多く残っておりますが、宝塔が多いのは、小此木輝之氏によれば天台宗の影響だからだそうです。
宝篋印塔は残念ながら完形のものはなく、いずれも相輪や塔身を欠いております。
ここには重文の凝灰岩製宝塔があり、これは相輪を欠くものの全高1メートル65センチあり、基礎の底面に
敬白
奉造立多宝石塔
右所造立如件
建治二年(1276)十二月廿五日
第三代住持比丘院豪
と銘があるそうで、長楽寺三世一翁院豪がこれを造立したことが分かります。
しかし、今回の目的はこれではなく多層式宝篋印塔で、特にその中の一基に猫ひぢりさんが興味を持たれた様子。確かに良く見ると面白い特徴があります。

(2004年12月19日撮影)
さて、この文殊山には何故か五輪塔が一基もないのですが、文殊山に登る階段下にある「徳川義季廟」の碑の根元付近に空風輪の残欠などが集められていたので、当初は皆無というわけではなかったのでしょう。
しかし、改めて見ると非常に興味深い場所です。

その後は文殊山の後ろにある開山堂、世良田東照宮(拝殿は徳川家光改修以前の日光東照宮拝殿を移築したもの)を見学して、時間も押し迫ったこともあって一路熊谷へ。
デニーズでお茶をした後に熊谷駅で解散。
非常に有意義な一日でした。