宝篋印塔巡りその2

廿日 癸酉 晴。

さて、都合1時間光福寺塔の調査をし、お寺の方にご挨拶をして、一路上州へ。
目的地は尾島町世良田の古刹長楽寺。
言わずと知れた、新田(世良田)次郎義季開基・栄西の弟子栄朝開山となった顕密禅共学寺院で、当初は天台色が濃く、徐々に禅宗へと傾倒していった寺院です。
ここには、開山塔の東にある文殊山と呼ばれる古墳の上に中世石塔群があり、新田義季の廟所とされています。
以前猫ひぢりさんにここにある宝篋印塔の写真を御覧頂いたところ、興味を持たれたご様子だったので、今回コースに入れたのですが、東松山から尾島町といのは県を跨いでいることもあってそれなりに時間が掛かります。
国道17号バイパス(上武国道)を走行中、岡部町の岡部六弥太忠澄一族の五輪塔を見学に行こうかと思い立ち、後方を走ってる石浦に連絡すると
「岡部六弥太五輪塔はこっちじゃないよ」
そう、もう目の前は利根川に架かっている上武大橋の目前で、全然方向が違ったのでした。
ので、取り敢えず通り道の尾島町安養寺交差点付近にある呑嶺山明王院安養寺の石塔群を見学に行きました。
新田義貞法名は安養寺殿で、明王院新田義貞菩提寺安養寺の一部であった、と言います。
まず、車を降りて二天門をくぐりましたが、ここには増長天立像と持国天立像があります。一見して結構古そうだけど鎌倉期までは遡れないだろうなぁ、と思いましたら、これは南北朝期の造立と目されているそうです。
境内には秩父緑泥岩製の阿弥陀1尊種子が刻まれる板碑がありますが、ここには梵字の光明真言と、
康永元年(1342)壬午六月五日/前刑部卿/源義助/生年四十二/逝去
と刻まれており、義貞の弟脇屋義助の供養の為に建立されたことが分かります。
しかし、この板碑は北朝年号(南朝年号は興国三年)を刻むことから、偽作ではないか、という説も出ていますが、追善供養のために建立されたと考えれば不思議ではないでしょう。
不動堂の裏には中世石塔群がありますが、基本的には凝灰岩製の鎌倉〜南北朝期まで遡れるものが多く存在し、中には関係であれば2メートル程度あったのではないか、と思わせる大型のものもあります。
が、その中には完形のものがなく、水輪を重ねて団子状になっている塔があるなど、余り良い状態ではありません。


(2004年12月19日撮影)


今回、明王院でちょっとしたサプライズだったのが、普段は覆屋に納まっている南北朝期のものとされる角閃石安山岩薬師如来坐像が、覆屋が修理の為に解体されていて外に剥き出し状態になっていたため、裏面まで観察できたことでしょうか。しかし、素人目には何故これが南北朝期まで遡ることが出来るのか分かりません(笑)。元は西安養寺の畑中にあった安養寺の子院薬師坊に安置されていたそうですが、戦後明王院境内に遷されたそうです。

では、第三弾はまた次です(笑)。