宝篋印塔巡りその1

十九日 壬申 晴陰。

【本日のお買い物】

『新田荘尾島町の仏像 尾島町仏像・神像調査報告書』(群馬県新田郡尾島町教育委員会、2004年3月29日)
『長楽寺の宝物』(東毛歴史資料館、2003年10月11日)
『特別展 金子規矩雄拓本展[東毛編](東毛歴史資料館、1997年4月26日)
太田市文化財』(太田市教育委員会、1995年3月25日)


中前勉遠足班遠足。鈴木小太郎さん曰く「宝篋印塔ミニツアー」。
参加メンバーは、石造物研究者である猫ひぢりさん、そして鈴木小太郎さん・進一さん・石浦・私の計5人の比較的コンパクトな編成。

しかし昨日までの疲れからか、若干寝坊気味で時間に追われる羽目になってしまいました。
洗車してから、図書館から借りっぱなしになっていた本のコピーを取って返却し、更に遠足用の資料のコピーを取る予定でしたが、殆ど時間がなくなり、軽く車を掃除して図書館に本を返して石浦と合流すると、既に集合時間10分前に。
慌てて熊谷駅に向かい、何とか時間には猫ひぢりさん・小太郎さん・進一さんと合流。
最初に向かう先は埼玉県東松山市の四国山光福寺。ここには重文に指定されている元亨3年(1323年)12月8日の銘が入った宝篋印塔と、嘉元4年(1306)2月銘緑泥片岩製武蔵型板碑が現存しています。
この宝篋印塔は、安山岩製で、いわゆる関西形式と呼ばれる形式とされています。総高は205cmと、比較的大型のもので、何故この地方にこれほどの規模のものがあるのか、興味深いところです。また、この宝篋印塔を著名たらしめているのは塔身と基礎に刻まれた銘文で、
[塔身]
(東)
宝篋印塔
[基礎]
(西)
奉造立宝篋印塔一基/右塔婆者大日本国武州比企/玉太岡四国山光福禅寺沙門/鏡空了圓元亨癸亥/仏成道日起之誌之矣/当寺大檀那比丘尼妙明/藤原光貞朝臣/施主沙彌閣阿

このように、「宝篋印塔」と刻銘されており、これは宝篋印塔の名称が確認できる最古の銘だそうです。
「元亨癸亥」は元亨3年。仏成道日は釈迦が悟りを開いて成道した日で、12月8日がこれにあたります。曹洞宗の祖、永平寺道元は建長2(1250)年12月8日に「臘八上堂、日本国の先代、かつて仏生会・仏涅槃会を伝う。然れども、未だかつて仏成道会を伝え行ぜず。永平初めて伝え已に二十年なり。自今已後、尽未来際に伝え行ぜん。」と語ったと『永平広録』巻5に記されています。
この銘文により、元亨3年の当時から光福寺が禅宗であったこと、比丘尼妙明と藤原光貞が光福寺の大檀那となり、沙弥閣阿が施主となってこの宝篋印塔を造立したことが分かります。
藤原光貞は、寺伝によれば、武蔵七党児玉党越生氏庶流の黒岩孫二郎光貞とされていますが、小御家人の庶流がこれだけ大型の宝篋印塔を造立出来たとは考えにくく、造立者については再考すべきではないでしょうか。

現在は、板碑と共にコンクリ−ト製の覆屋に収められているのですが、今回は光福寺さんのご好意でこの覆屋の鍵を開けて頂き、直接見学する事が出来ました。
ガラス越しに見学するのとはその情報量に格段の差があり、そして専門家と一緒に間近で観察するというのは貴重な体験で、猫ひぢりさんの着眼点というのは本当に勉強になりました。

なお、この宝篋印塔の塔下からは白磁四耳壷・五輪塔形青銅製舎利器・水晶製数珠などが出土しています。
明治期以前は付近の叢にあったらしいのですが、状態の酷さに嘆いた有志が光福寺釈迦堂の側に移転し、この時に出土したものも一緒に埋設したそうです。

(2004年12月19日撮影)
長くなりましたので、続きは又明日。