樺崎寺跡発掘現場説明会(其の三)

廟所は「鑁阿寺樺崎縁起並仏事次第(鑁阿寺文書124号)」に
「右當寺者爲代々先君御菩提所、都鄙之將軍家御墓、五輪石塔並甍、御佛事無怠辿転、期松栢不朽之千歳者也、」
と書かれている場所です。
今回の調査の成果により、桁行10間(約18.1m)・梁行7尺(2.1m)の覆屋には、1間(=6尺)間隔で現在光得寺にある10基の大型五輪塔が1.8m間隔に並らべられ、これらは左右が壁で仕切られ各々一部屋になっていたと考えられるようになりました。
これは、この場所から應永廿年の銘の瓦が出土していることから、足利持氏が満兼および先祖供養に先立って樺崎寺を整備した際に、それまでの廟所を整備して新たに造られた覆屋と考えられています。それ以前の建物も今回の調査で確認されており、北側の方3間の建物、中央の方1間の建物がそれに当たります。。
光得寺の大型五輪塔は、実際には11基あるのですが、これでは数が合いませんが、この中の南から4番目の五輪塔には「□永二年五月廿四日」の銘が刻まれており。これは康永二年と考えられることから高師直の父師重の墓と考えられいますので、これは樺崎寺の高一族の廟所にあったと考えられるべきなのでしょうか。
しかし、一族ではなくても、近臣が主と同じ場所に葬られるのは、例えば横浜市金沢区称名寺金沢顕時・貞顕廟所などでも見られますから、これは不思議なことではないでしょう。
「称名絵図」には金沢氏廟には3つの建物が描かれており、それぞれの建物には五輪塔が収められていたと考えられています。今回頂いたレジュメには、
北側の方3間の建物(12世紀末〜13世紀前半)→中央の方1間の建物(14世紀前半)→6尺10間の建物(15世紀前半)と変遷した。
と書かれていますが、最初の二つは必ずしも建て替えたものではなく、「称名寺絵図」の様に同時に存在しえた物、と考えられると思います。
以前の調査で、廟所からは五輪塔の地輪や破片が確認されており、持氏の整備以前の樺崎寺廟所は、「称名寺絵図」の金沢氏廟所のような景観だったのでしょう。