霜月騒動再考

昨日は、月一度の中前勉例会に参加するため、都内K大学に行ってまいりました。
今回は、皆様ご存知であろう釈由美子が好きさんによる、
霜月騒動再現」
という発表でした。
内容は釈由美子が好きさん御本人の発言によりますと、

弘安8年(1285)11月17日に勃発した鎌倉幕府の内戦「霜月騒動」は、鎌倉時代後期の政治史の動向を決定付けたと高く評価されているが、その戦乱としての実態は、あまり考慮されていない。本発表では、霜月騒動の軍事的な推移を再現することを第一義とし、その点から鎌倉幕府政治史における霜月騒動の位置付けを再検討したい。

と言うもの。
先日『史学雑誌』に発表された本郷和人氏「霜月騒動再考」が、安達泰盛=統治派と、平頼綱=利益派は文永年間頃から対立し、両派の力関係によって幕政の方針は揺らいでいたが、両者の最終的な激突である霜月騒動によって統治派は壊滅した、と主に政治史の面から霜月騒動を見ています。
これに対し、釈さんは軍事行動としての霜月騒動を重視し、そこから武家政権の変遷に言及する、という内容でした。

特に私が興味を惹かれたのは、『門葉記』所収「関東冥道供現行記」の日光僧正源恵(4代将軍藤原頼経息)が、霜月騒動の直前、弘安8年11月4日奥州禅門(安達泰盛入道覚真)誅討=霜月騒動の時、平頼綱の申し入れによって冥道供を行っている、と言う点でした。
実に最終的な激突となった11月17日の13日前に既に合戦の準備を始めていたと云うものです。
今までこの事実に言及してきた人がいなかったことにも驚きですが(私も「関東冥道供現行記」を見ているにも拘らず気がつきませんでした)、既にこの時点で戦端が開かれようとしていた、というのは驚嘆を禁じえません。
(以下続く)