樺崎寺下御堂法界寺の金剛界大日如来像(後編)

(続き)
ということですが、これを裏付ける史料が、「鑁阿寺文書」中の室町時代中期の成立といわれている「鑁阿寺樺崎縁起並仏事次第」です。

又下御堂号法界寺彼堂仏壇下奉納瑠璃王御前・薬壽御前兄弟二人同日死去、御骨云々、爲彼両人孝養三尺皆金色金剛界大日如来像彫刻之、塁祖相傳之犀皮鎧以奉造之云々、奉安置寶形御厨子、建久四年十一月六日御願文在之、

面白いのは江戸時代成立といわれる「鑁阿寺別縁起」の

上人帰足利於城堀内、家綱公孫依藤原又太良忠綱叛頼朝公、義兼討殺之、忠綱没地有神祠、今云忠綱明神、義兼・義氏移居於忠綱跡、今鑁阿寺境内義国・義康・義兼三代之城地也、建立鑁阿寺、建久七年丙辰也、(中略)遠召仏司運慶、令刻等身大日如来像並仁王像、准高野山堂塔、

と云う記述で、これは鑁阿寺大日如来像のことですが、樺崎寺にあった二体の大日如来坐像は、何れも運慶工房の手になるもの、と確認できたことでしょうか。となると、近世の作と言う事から余り省みられてこなかった「別縁起」の記述ももう一度再確認してみる必要があると言えそうです。