長野散策一日目

三日 霽 丁亥。

妙薬寺(東京都八王子市)

大徳王子城(長野県高遠町高遠城

桂泉院(長野県高遠町

峰山寺(長野県高遠町

建福寺(長野県高遠町

諏訪大社上社前宮(長野県茅野市諏訪頼重供養塔)

神長官守矢史料館(長野県茅野市

守矢史料館では、到着してびっくり。なんと、企画展「諏訪と鎌倉時代」との看板があるではありませんか。
もしや、と思って料金を払って館内に入って展示室を見ると、果たせる哉、『守矢文書』の中世古文書、それも鎌倉時代を中心としたものが展示されておりました。
元々狭い館内&展示室なので、展示数は少なかったのですが、展示文書の一覧を挙げますと、
・建久3年(1192)4月26日付 将軍家(源頼朝)政所下文
・建暦3年(1212)8月19日付 源実朝下文
・承久元年(1219)8月15日付 承久年記
・嘉禎4年(1238)12月1日付 諏訪上社物忌令
・寛元4年(1246)11月7日付 藤原頼嗣袖判下文
・寛元4年(1246)12月9日付 北条重時施行状
・元応元年(1319)7月12日付 関東下知状
・嘉暦4年(1329)3月付 大宮造営之目録写
・元弘2年(1332)1月11日付 諏訪時継寄進状
・守矢貞実手記
以上10通でした。
源頼朝政所下文は、何故か宿紙で、文言も無茶苦茶(例えば、書き出し部分が「将軍家 下政所」となっているなど)。思わず「ああ、守矢文書だなぁ」と納得してしまいました。
源実朝下文は、頂いた解説の読み下しには袖判があることになっているのですが、実物にはありませんでした。これも、まぁ、「ああ、守矢文書だなぁ」と納得する文書。
頼嗣袖判下文と、関東下知状は、昨年の長野県立歴史館での「中世信濃武士意外伝」でも展示されていた文書で、関東下知状には北条高時金沢貞顕の名と花押が見えます。
さて、今回の展示で一番驚いたのは「守矢貞実手記」が展示されていたことで、この文書には、
暦応三年<戌寅>相模次郎殿、六月廿四日信濃国伊那郡被楯籠大徳王寺城(以下略)
と記されております。
相模次郎殿は北条高時の遺児北条時行。この文書は、北条時行鎌倉幕府滅亡後の建武2年(1335)に幕府残党とともに兵を挙げて鎌倉を占拠し、足利尊氏建武政権から離脱する引き金となった所謂「中先代の乱」の後に、信濃に落ち延びた北条時行が暦応3年(1340)に、諏訪大社上社大祝諏訪頼継と共に守護小笠原貞宗と戦った、という記事を載せる唯一の史料です。
守矢貞実が応永年間の人物ということもあって、史料の信憑性自体が疑われており、大徳王子城の戦いそのものがあったかどうかも疑問視されているそうですが、まさか、この史料を生で見ることが出来るとは思わなかったので驚きました。
早速、北条時行研究者のT氏に連絡したところ、「行く!」という力強いお返事。

その後は史料館裏にある古墳と、近世の諏訪氏・守矢氏の墓所を見学。そして、そこで見たものは、木の上にある謎の家。


(撮影日:平成17年5月3日、午後4時30分)

調べたら、どうも茶室だとか。